江戸時代の上級武士の辛すぎる生活の実態!

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Published 2024-06-25
2:08 780万→7800万
6:33 大目付→目付

江戸時代の上級武士の暮らしは、
決して恵まれているわけではありませんでした。
今回は、これがどういうことなのかを解説していきましょう。

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▼目次
0:00 イントロ
0:28 上級武士とは?
3:23 仕事が無かった上級武士
5:44 激務だった上級武士
9:33 棄捐令
11:53 お財布事情


参考文献
ダイヤモンドオンライン「江戸時代の平凡な武士は、ほぼ令和のサラリーマンだった」
北陸大学教授・長谷川孝徳「大江戸単身赴任事情」
静岡県総合教育センター「武士の身分や生活」

▼BGM提供
・音楽素材MusMus様→musmus.main.jp/
・魔王魂様→maoudamashii.jokersounds.com/
・PeriTune様→peritune.com/
・DOVA-SYNDROME様→dova-s.jp/
・甘茶の音楽工房様→amachamusic.chagasi.com/
・ポケットサウンド様→pocket-se.info/
・音の園様→oto-no-sono.com/

▼イラスト提供
・Adobe Stock→stock.adobe.com/jp/
・ACイラスト→www.ac-illust.com/
・Vecteezy→www.vecteezy.com/

#上級武士
#侍

All Comments (20)
  • 江戸町奉行は便宜上南北に分けていますが、江戸の町を南北にわけて管轄していたのではなく、月番制で月替わりに職務を分担していたはず。。
  • @user-eg7fc9mk9s
    失礼ですが、いくら幕臣であるとはいえ、御家人が上士とは言えないかと、、、
  • @user-ld5mz1tl7q
    1万石以上の俸禄は大名で、旗本と御家人の違いは基本的に地方知行で石高表記なのが旗本で、基本的に扶持米取りで俵表記なのが御家人 上級武士は幕府の場合は寄合席以上、諸藩の場合は寄合または着座相当 藩によっては200石割れの家老がいたり、中堅の馬廻で800石のヤツがいたりするので、石高だけでは上級武士とは言えない
  • @masashimera5198
    町奉行は大目付ではなく目付けを経験したものかと
  • @kazus7700
    1:59 あたりですが、260石で1石30万円換算だと、7800万円です。しかし、武士も『税金』を収めたり、家臣等雇うので、自身の収入は低かったでしょう。
  • @toshis3972
    小普請組は仕事が無いだけではなく小普請金と言うお金を取られていました。これは当初、江戸の開発に辺り小普請組は文字通り肉体を持って普請作業に従事していましたが、江戸の人口が増え各種専門職が増えるにつれ土木建設建築の専門化でもない小普請組の意味は消失していきます そこで幕府が彼らに課したのが労働力代わりの金納。石高に応じて課金額が決まって居ますが石取の彼らは米価の値下がりと共に小普請金の上納も滞る事になります。ただでさえ無職で僅かな役職手当も貰えず逆に課金される(代替わりでの小普請組行は小普請金は免除される) 江戸の武士達が賄賂を駆使して何かしらの役に就こうとしたのはそういう事情が有ります。また旗本・御家人の株の売買にはそれを持って小普請金を完済するためでもありました。幕府は軍事政権なのに自分の軍事力を自分で低下させる愚策を犯していたことになりますね
  • @user-ww9qf8je2e
    我家は家禄五百石の上士で馬廻役だったので職禄として百石二十人扶持を貰っていまいたが武士はその家禄に応じて 雇う家臣小物の数が決められていたのでそれほど裕福という訳ではなかったみたいです。 武士は軍人なので戰の時には何人動員しなければならないと言うのか決められていたのです。
  • @user-zu6tc9mb7s
    武士はある意味一度給料が決まると余程の出世等がなければ何代後も同じ給料の相続。最低限の生活は保障された
  • 武士よりも豪商の方が豊か。 代官だと安い給料なのに家臣を自費で雇うのが義務とかだから、時代劇の悪代官は完全にフィクション。
  • @user-go7cm5mj7m
    お代官様は本気でシャレにならないほど忙しかったらしく、不人気だったとか・・・・・・・
  • @user-er4gg3lh5z
    武士の家計簿でやってましたな。 まあ家老クラスならもう少し 楽なのかもですが。
  • 土佐藩の場合、上士と下上の違いは、関ヶ原合戦後に掛川から土佐に入国した山内家家臣団。 下士は長宗我部家臣団です。 ですので、土佐藩では上士と下士の間にはものすごい身分差別があったようです。 ただ、幕末になるとその上士の中にも下士と交流を持つものも居て、その中の一人が板垣退助です。 武士であろうが町人や農家であろうが分け隔てなく接して居たそうで、こうした事が自由民権運動や日本初の部落解放運動にも繋がってるようです。 そして、板垣退助は今の政治家ではまずしない行動が1代華族論を唱えて議員や華族の身分・家督相続の返上です、 事実、子息は華族の身分を返上してます。
  • 薩摩の船見学、今の議員さんたちの視察と全く同じ。
  • @user-vb3mv9zv7l
    実際の 同心 与力 付け届けで 下手な 武士より 裕福だった みたいですね
  • @sohno
    どこから突っ込めばいいのか判らないが、780万?計算おかしくないか?40石の小普請組に入るのが上級武士??大目付を経験してから町奉行?どこから仕入れたか知らないがもう一度資料を精査したほうがいいと思う。あと棄捐令は札差にも図って考え出されており富の再配分とい側面もあり言うほど貸し渋りがあったとは聞いていないが違うの?
  • 元々、参勤交代の意味とは…… 将軍に挨拶に行く、とはちょっと違う 遠方から参勤交代の為に出向くには、多くの財力が必要となる 将軍に逆らう財力や兵力を削ぐ為に参勤交代を義務としたのである 貧乏な藩が【見栄】の為に、参勤交代の行列に農民等の臨時人足を雇い、かりそめの豪華さを見せつける事も有ったとか……
  • @user-lt3pd6cs7p
    江戸時代の上級国民は、筆頭与力やお奉行以上の役職をイメージします😹 町奉行は現在で言う裁判官、県知事、警視総監、消防長などの仕事をしていたのは有名な話ですよね😹 そりゃ過労死する人もいるよ😂